札幌一根暗な小心者が
大手コンサルを辞退した決断
コンサルタント 長井 駿希 Nagai Shunki
大阪大学基礎工学部卒。大学院1年生から長期インターンを開始、1年間のインターン期間を経て大学院を退学しJBAに新卒入社。
現在は大手企業の採用コンサルティングやインターナルコミュニケーションの支援に携わっている。大学院を中退してまでコンサルタントの道を選んだのは、「自分の意思で挑戦し、成果を残す」という経験を追求したかったから。裁量が大きく、青天井にどこまでも挑戦できるJBAの環境で、自分の可能性を試し続けている。
JBAに入って驚いたこと
「勉強だけは負けない」大阪で砕かれた唯一の自信
小学生の頃から、私は一人の時間が好きな子供でした。友達と遊ぶよりも図書館で本を読むことを好み、特に熱中していたのがそろばんでした。毎日の練習を重ね、小学5年生で北海道2位、中学2年生でついに10段(7桁×7桁の暗算を3秒以内でできる)に合格するまでになりました。そろばんの先生にはよく面倒を見てもらっており、当時の数少ない話し相手の一人でした。中学進学後も、友達があまりいないままでしたが、「自分には勉強がある、これだけは人に負けない」と、1年生のころから休み時間で図書館で勉強ばかりしていました。その甲斐あってか、地元札幌の上位校に進学できました。
地元の北海道では、北海道大学は憧れの的で、合格できればすごいことだとされていました。しかし、4人兄弟の次男として育った私は、特別裕福ではない家庭環境の中で、良い兄弟ながらも少し頼りない兄弟たちを見て、辛うじて社交的な自分が家族を支えていかなければと考えていました。より良い給与を得るためには良い大学へ―。その思いも、大阪大学を目指すきっかけとなったのです。
朝7時から夜10時まで勉強漬けの日々を送り、その努力が実を結んで大阪大学基礎工学部に現役合格。しかし、大学での新生活は私の価値観を大きく揺るがすものでした。それまで自分の強みだと信じていた学力で、難しい問題を軽々と解く学生や、複雑な教科書を容易に理解する仲間たちに完全に後れを取っていたのです。
奨学金1000万円。「稼ぐ」覚悟が導いたコンサル業界とJBAとの出会い
学問を武器にしようと大学院へ進学しましたが、その選択にも次第に疑問を感じ始めます。一般的な研究職の年収が500万円程度だと知り、漠然と描いていた大手メーカーでの研究職という将来像が揺らぎ始めたのです。第一種・第二種の奨学金を満額借りていた私には約1000万円の返済があり、この収入では家族を支えるどころか、40歳になっても返済に追われる生活が待っているように思えました。
転機は大学院の同期との会話でした。そこでコンサルタントという選択肢を知ります。大手企業の経営課題を解決する仕事で、BIG4と呼ばれる外資コンサルなら初任給500〜600万円、平均年収は1,300〜1,500万円。この収入なら将来の展望が開けると、私は迷わずコンサルタントの道を選択しました。
就活の面接対策を友人としている中で、「大阪でコンサルの長期インターンがあるらしい」という情報を得ます。それがJBAとの出会いでした。難関のコンサル就職には面接で話せる経験が不可欠でしたが、私にはそれが乏しく、他の応募者に勝てるガクチカが必要でした。そこで友人と共に、ガクチカ作りの機会としてJBAへのエントリーを決意したのです。
JBAに入って驚いたこと
「頭が良い」だけでは通用しない世界で、初めて知った自分の限界
阪大生の友人2人と共に参加したJBAの長期インターン。クライアントは誰もが知る大手企業ばかりでした。初めて触れる「ビジネス」の世界は、知らないことばかりで純粋に面白く感じました。
インターン生には日本全国の大学から学生が集まっていました。東京や京都、神戸や九州などの地方の学生とも、オンラインでディスカッションを重ねる中で、衝撃を受けました。「この業界だったら、」「」現実に直面することになります。
自分より年下の学生たちが、私よりもビジネスを理解している──。あるプロジェクトの会議の会話の中で、社員に「長井さんはどう思う?」という質問を投げられて自分が仮説を出せずにいると、周りのインターン生はどんどん仮説を出す。間違っていたとしても発言する。その会議のあとで言われたのは「頭が良いだけの奴は行動が遅い、ビジネスではそれより動ける奴の方が勝てる」という指摘。
そしてJBAのインターン生たちは、「将来起業したい」「20代のうちに事業をつくりたい」など、自分で決めた大きな目標に向かって、ビジネスに没頭している。コンサル就活のために勉強してきたつもりでしたが、その程度は全く通用しないレベルだったのだと痛感させられました。
JBAに決めた理由
大手コンサルの内定を蹴ってでも掴みたかった、自分だけの挑戦
大学院1年生の11月、ある外資系コンサルティング会社から内定を獲得。特に強いこだわりがあったわけではありませんでしたが、それなりの志望度だったため、この内定で就職活動を一旦終えました。
ところが内定をもらった12月頃から、改めて自分の進路を見つめ直すようになります。「将来、自分は本当に何がしたいのか」「その将来のビジョンに向けて、JBAという環境はどう役立つのか」。インターン仲間や社員との対話を重ね、時には上司と朝まで飲みながら将来を語り合う日々が続きました。
そんな対話を重ねるうちに、「このまま内定をもらったコンサル会社に行っていいのか」という疑問が日に日に大きくなっていきます。勉強で敗北した大阪大学の同期たちにビジネスで勝ちたい。大手外資コンサルなら確かに初任給は高いものの、敷かれたレールに乗るだけ。それでは賢かった彼らを超えることはできない。むしろ20代のうちから事業を作る経験を積む方が、彼らを超えるチャンスがあるのではないか。
確かに外資コンサルの方が初任給も年収も高く、JBAの初期月収はそこまで高くはありませんでした。1ヶ月悩み続けた末、「自分で事業を作り、人を集めて組織を作り、そして稼ぎげる事業家になりたい」と当時のマネージャーに相談したところ、「JBAでまず3年やってみたら。本気でやれば20代前半で年収1000万円稼げるような人材になれる環境はある」という言葉をもらいました。
ビジネスに向いている性格ではない自分が周りを超えるには、確かにそれくらいの覚悟が必要でした。勉強やそろばんの時のように簡単には認めてもらえない。20代全部を成長に費やさなければ、彼らに追いつくことはできない。
そして私は、崖から飛び降りるような決断をします。大学院を中退し、獲得していた内定も辞退してまで、JBAに新卒として入社することを決意したのです。それは、私にとって初めての、自分の意思による大きな決断でした。
これからのビジョン
大手コンサルの内定を蹴ってでも掴みたかった、自分だけの挑戦
入社から半年、挑戦と失敗の連続でした。100回以上は失敗したでしょう。でも不思議と、その一つ一つが楽しくて仕方ありません。失敗するたびに自分自身を否定されるような経験の連続でしたが、それは新しい環境で挑戦した証。確実に前に進んでいる実感があります。大学時代、失敗すらせずにうじうじしていた自分と比べると、今の方が何倍も充実しています。
大手コンサルの内定を辞退する時は、両親も友人も反対しました。正直、年収もキャリアも不安定な道を選ぶことへの不安はありました。唯一の救いは、親に相談したところ、あまり業界「BCGかJBAか知らないけど、好きなことやったら?」と言われたこと。加えて、「ビジネスで成功したい」「事業を作りたい」という思いの方が強かった。その思いが、この一歩を踏み出す原動力になりました。
私の当面のビジョンは、30歳までに奨学金を完済できる年収を稼ぐこと。
そのためには、まず自分がリーダーとなる事業を創り上げることが目標です。
私は入社式の時、「コンサルを蹴ってまでJBAに入るからには、絶対にJBAを変える原因の一人になりたい」と社員、社長の前で、宣言しました。
企業ブランディング領域では、広告代理店やコンサルが支援を行っていますが、その多くは表層的な支援に留まっています。ここにこそ、JBAが新しく参入できる市場があるはずです。私はその中心となって、この領域で新しい事業を創り上げていきたいと考えています。